2016年05月

2016年05月24日

食事の時間が憂鬱だった

子どもの頃、私は食事の時間が憂鬱でならなかった。

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※祖母と、4歳くらいの私。井の頭公園にて。


幼少期、私には何故か、「お腹が空く」という感覚が無かった。
間食をするわけでもない。
しかしどういう訳か、 お腹が空かない。

食事の時間。

「食べたい」という気持ちが無いのに、食べ物を口に運ぶのは苦痛なものである。
当然、一向に箸が進まない。食べ終えるのに時間がかかる。

すると、怒られる。


「早く食べなさい!」


母は、昔から行動が遅いことを嫌う人だった。 
私が怒られるときは大抵、

「ぐず!」
「早くしなさい!」

と罵倒され、「ぐず=愚かもの・馬鹿」と教え込まれた。
恐ろしかった。


しかし、頑張っても体になかなか入っていってくれない食べ物たち。嫌いな食べ物、というわけではなく、ただ単に「お腹が空いていない」だけだったのだ。
どうしよう。
また怒られる。


恐らくこの体質は、母方の家系なのではないかと思う。
訊けば、母の小さい頃も、従姉妹の子どもの頃もそうだったという。


最近になって、子どもの頃のことをあれこれ回想するにあたり、
今更ながらに浮かんだ疑問がある。


「じゃあなんで、私はあんなに怒られたの??」


怒った本人である母自体が、小さい頃にはなかなかご飯を食べなかったはずなのに。
私の状態をなぜ、理解してくれなかったのだろうか?


数日前、母のところに行く機会があったので、訊いてみた。
すると意外な答えが返ってきた。


「みんなが、アンタを甘やかすからよ」


・・・え?
ちょっと待って、どういうこと?


確かに当時を思い起こせば、父や祖母は私に優しかった。
特に祖母は、根気よく私に食事をさせた。

両親が共働きだったため、私は当時、月~金は母方の祖母に預けられていた。
食事の時、私が食べ終わるまで祖母は

「はい、好さん、頑張って~♪頑張って~♪」

と根気よく私を励まし、応援してくれた。
しかし残念ながら、その応援歌を聞いたからと言って私のお腹が空くわけでもなく。
食事に飽きた私は、席を立って部屋の中をウロウロ歩いたり、TVの音楽に合わせて踊ってみたりする。
そうすれば少しはお腹が空くかも、と思ったのかもしれない。

残す、ということがなかなか許されなかったから、余計に時間がかかった。
大人側からしてみれば、子どもが食事をとらないなんて心配だ、食べさせたい、という気持ちもわからないでもない。
特に祖母の立場からすれば、娘から預かった孫にご飯を食べさせなければ、という責任感もあったのだろう。


「好さんは、踊りながらごはん食べるのね~」
「好さんは、将来フランス人と結婚するといいよ。フランスの人は2時間かけて食事するらしいから」


そんな事を、祖母によく言われていたのを思い出した。

そうやって、祖母が私を甘やかす様を見て、母は怒りが出たらしい。
「食べなきゃ食べないで死にゃしないわよ!」
その怒りは私にぶつけずに、ぜひ大人同士で話し合ってほしかった、と切に思う。

自分も子どもの頃そうだったけれど、次第に食べられるようになるから。
無理に食べさせなくても大丈夫だから。
無理に食べさせたら、食事に対して嫌な思いが生まれてしまうから。

など、自分の体験をもとに、祖母と話し合ってほしかった。
そして私を助けてほしかった。

けれど母は私を怒鳴りつけた。
きっとそれは、母の中に眠っていた、何かの痛みに触れる出来事だったのだろう。


ある日の事。
やはり今日も、食事が喉を通らない。
怒り心頭に達した母は、玄関を開け、私を裸足のまま追い出した。

「甘ったれるのもいい加減にしなさい!!ウチだから、ご飯食べさせてもらえるのよ?
この世の中に、どこの誰が、アンタにご飯食べさせてくれる?
゛おばさん、アタシお腹が空いたからご飯下さい”って、探してごらん!
運動靴一足やるから、出ていけー!!」

と、鬼の形相の母。
その様子が恐ろしく、子ども心にマズイ!と思った私は、即座に玄関で土下座をした。
生れてはじめての、土下座。


「お母さん、ごめんなさい!もうわがまま言いません!お願いです、家に入れてください!」


5歳児が、わけわからず大泣きしながら、土下座で一生懸命謝ったのである。
(だからといって、その後ご飯が食べられるようになるわけではないが)

その様子に母の溜飲が下がり、家に入って良いという許可が下った。
それから何十年も、母はこの時の事をある種「武勇伝」のように自慢げに話す。

「アンタ、小さい頃は素直だったのよ。」と。



その度に私は忌々しい気持ちになったが、
子どもの頃に抑え込んだネガティブなわだかまりを
また更に精一杯抑えつけたのである。








 

b_manner at 13:00|PermalinkComments(0)5歳未満 

2016年05月13日

父の闘病生活

父の闘病生活は、短く、濃かった。


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その時私は小学校6年生だった。
もうすぐ夏休みという、7月の頭の土曜日。
午前中で授業が終わり、アパートに帰ってきた正午すぎ。
家の電話が、鳴った。


「ああ、好?あのね、落ち着いて聞いて。
今、お父さんをやっとの思いで病院に連れてきたんだけど、
癌だって。もう手遅れだって。」


母の声が、震えている。明らかに動揺している。


私も電話を持つ手が、受話器ごと震えた。
声が、出なかった。

その日、その後どうしたか、どうしても思い出せない。


恐らく、父の病室を訪ねたのは翌日だった。
思ったより元気そうな父。
笑顔で、嬉しそうに私を迎える。


昭和58年当時は、癌の本人への宣告がされない時代だった。
私達は「お父さん、ちょっと肝臓が悪いらしいよ」と適当に誤魔化した。
しかし、父は恐らく気づいていた。
頭のいい人だったし、何より、日に日に増す痛みで、それに気づかずにはおれなかったのだろう。

本人は、最期まで気づかないふりをしていた。
私達が一生懸命言葉を濁すのを見て、それを思いやったのだと思う。


夏休みに入った。
炎天下の中、毎日病院に通った。
病院は、家から電車で30分くらいのところにあった。


「本当に、40日?嘘でしょ?」


毎日毎日、入院の日数を数えながら、どうかそれが医者の間違いでありますようにと祈った。


夏の高校野球が、病院のテレビで毎日流れていた。
未だに夏の甲子園は、あの時の事を思い出させる。

暑さも手伝ってか、父はどんどん食欲が無くなっていった。
母は、伯父から紹介された、癌に効くという高い煎じ薬を毎日仕込み、病室のベッド脇の棚に隠して、父に飲ませた。
どんな味かと一口飲んだら、この世のものとは思えないような不味さだった。
プラスチックを溶かしたような味。
こんなもの、よく飲めるな、と思った。
しかし父は我慢して、毎回それを飲み干した。
自分を心配する母の言うことを聞いてやろう、と思ったのだろう。

父なりの、愛。


病院食は殆ど残す。
冷たいものだったら喉を通るかと、父の好きな冷奴を持っていってみるが、やっと一口食べるのが精いっぱいだった。


高校野球の、準々決勝。
確か、8月9日。
父の誕生日なのに、お祝いどころではない。
腹水が溜まって、風船のように張ったお腹。
肌は渦黒く、黄疸がでている。

それまで泣き言を言わなかった父が、「痛い、痛い」と連呼するようになった。


「お父さん、大丈夫?モルヒネ、打ってもらう?」
「うん」


私は看護婦さんのところに行って、手配してもらう。


モルヒネ。
いくら子どもでも、それが異常な事態であることはわかる。
しかしもう、手の施しようが無かったのだ。当時の医療の限界。
今なら日本全国の名医を探すとか、いろいろな情報を探せるが、当時の私がそんな事できるはずもなく。

残念ながら、それが父の天命だったのだ。


そしてモルヒネを打つ。
やっと、息が付けたかと思いきや、1時間もするとまた痛みがひどくなる。
また、看護婦さんを呼ぶ。

どんどん、看護婦さんを呼ぶ間隔が短くなっていく。
あっという間に父の姿が変わっていく。



誰か、助けて。
お父さんを助けて。
神様、お願いです。
何でもしますから。
お願いです。


どんなに泣いて願っても、その祈りは報われることなく、
その3日後が父の最期の日となる。


「もう、ダメだ」
父が自分でそう悟った時、何か言おうとした。

声は、出なかった。
声を出す力は、もう残っていなかった。

最後の力を振り絞って、ペンを持つジェスチャーをして、私にペンと紙を取らせた。

何かを、書こうとした。
震える手でペンを持ち、何とか紙に押し付けたが、2-3㎝ほど線を引いたところでペンを取り落とし、そのまま絶命した。

あの、最期の残念そうな顔。
悔しそうな顔が、思い出される。


あの時、お父さんは、何を言いたかったの?



昭和58年8月12日。
辻弘、肝臓癌で他界。
享年58歳。








b_manner at 01:24|PermalinkComments(0)10代前半 

2016年05月11日

子どもの頃に失った一番大きなものと言えば、父。

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大正15年生れ。
57歳で肝臓癌が発覚し即日入院。
医者の宣告通り、入院からきっかり40日で他界。
享年58歳。

父の誕生日は8月9日だったが、その3日後の12日に息を引き取った。58歳を3日しか経験しなかった。


父の様子がおかしくなり始めた頃。
あれは、私が小学6年生の春。

当時、父と母が経営していたスナックがうまくいかず、
父は学生時代の友人が経営する健康食品の会社に勤めに出た。
そこで、毎晩接待で無理をして、体を壊した。
健康食品の会社に行って健康を害すとは、なんとも皮肉な話しだ。

父はお酒は好きだが酒量は多くなかった。
晩酌でも、ウイスキー(サントリーの角)をグラスに1杯程度。
私はそのウイスキーの香りが苦手だった。


更に父は、普通のサラリーマンをしたことが無かった。


父は麻布に生れ育ったお坊ちゃまだったが、
大学卒業後、周囲の反対を押し切り、バイオリンを武器に芸能界に入った。 
(その辺の細かな経緯は、父に聞くことも無かったが。)

芸能プロダクションのお笑いタレントとして、
楽器を使った漫談をするグループ(「ボーイズ」というジャンル)のリーダーをやっていた。 


「辻ひろしとハッタリーズ」
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※一番右が父。


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※この写真だと真ん中。
 

新聞にも載った。
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当時は今ほどメディアが発達していなかったので、
父の活躍の舞台の殆どが、いわゆる「営業」、ドサ回り。

一時期売れたこともあったらしいが、次第に下火になり、仕事がなくなっていく。

そんな時に、母が私を妊娠。
それまでにも妊娠したことがあったが(男の子だった、と聞いた)、父が許さず堕胎。
二度目の妊娠の際も、父は母に「堕ろせ」と言ったが、母の母、つまり祖母がそれを聞いて、怒って父のもとに乗り込んだ。

その祖母の怒りに気圧されて、父は母との入籍と私の出産を決意した。

父にとって母は三人目の妻。
前妻との間に男子が一人いるので、もう子どもはいらないと思っていたらしい。

が、私は祖母のお蔭で無事にこの世に生を受けられた。
昭和46年9月28日。
父46歳、母35歳。


話は戻って、
自分にこれから子どもができるのに仕事が無い状態の父は、
芸能人を引退して、バックヤードに下がる。
マネージャー職として、韓国から歌手を日本に誘致し日本で売り出す仕事をしていた。
確か、名刺の肩書は「部長」だった。

しかし、裏方と言ってもそこは芸能界。
立場が変わっただけで、その世界は父にとっては割と生きやすかったに違いない。

それから10年程経ち、母の提案でスナックを調布の一角に開店することになり、自分も店を手伝うというので、芸能プロダクションを退職。

それが、運のツキだったか。
まさか、その店があっという間に経営不振になって、働きに出ることになろうとは。
自分が友人に頭を下げて、慣れない仕事でストレスを抱える日々になろうとは。

父としては、思ってもみなかったことなんじゃないだろうか。

そうして父は、毎晩「仕事の付き合い」で自分の酒量を超えた飲酒をし、家に帰るとすぐにトイレに駆け込んで、吐いた。

一人で留守番をしていた私が、父の生前半年ほど、毎晩見た光景だった。


何が起きているのか?
あまりに異常な光景に、ひたすら、怖いと思っていた。


「好、背中に膏薬(シップ)を貼ってくれる?」


父はひとしきり吐いた後、「背中が痛い」と言って、
私は湿布薬を父の背中一杯に貼った。


母は殆んど店にいたが、さすがに父の様子がおかしいことに気づき、何度も医者に連れいていこうとした。


医者嫌いの父をようやく医者に見せられたのは、
「余命あと40日」という末期だった。


 

b_manner at 01:25|PermalinkComments(0)10代前半 

はじめに

このブログは、
自分のインナーチャイルドを癒すために、過去を振り返って
「子どもの頃に何があって、何を失ったのか」
を思い出してみよう、と思って自分のために始めます。

自分のために書くので、読みづらいと思います。

しかし、私の過去の中に
貴方の過去に似た部分があったり、
何かを思い出したり、
何かのきっかけ・役に立てたなら、
嬉しいです。

b_manner at 01:14|PermalinkComments(0)
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