2016年05月11日

子どもの頃に失った一番大きなものと言えば、父。

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大正15年生れ。
57歳で肝臓癌が発覚し即日入院。
医者の宣告通り、入院からきっかり40日で他界。
享年58歳。

父の誕生日は8月9日だったが、その3日後の12日に息を引き取った。58歳を3日しか経験しなかった。


父の様子がおかしくなり始めた頃。
あれは、私が小学6年生の春。

当時、父と母が経営していたスナックがうまくいかず、
父は学生時代の友人が経営する健康食品の会社に勤めに出た。
そこで、毎晩接待で無理をして、体を壊した。
健康食品の会社に行って健康を害すとは、なんとも皮肉な話しだ。

父はお酒は好きだが酒量は多くなかった。
晩酌でも、ウイスキー(サントリーの角)をグラスに1杯程度。
私はそのウイスキーの香りが苦手だった。


更に父は、普通のサラリーマンをしたことが無かった。


父は麻布に生れ育ったお坊ちゃまだったが、
大学卒業後、周囲の反対を押し切り、バイオリンを武器に芸能界に入った。 
(その辺の細かな経緯は、父に聞くことも無かったが。)

芸能プロダクションのお笑いタレントとして、
楽器を使った漫談をするグループ(「ボーイズ」というジャンル)のリーダーをやっていた。 


「辻ひろしとハッタリーズ」
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※一番右が父。


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※この写真だと真ん中。
 

新聞にも載った。
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当時は今ほどメディアが発達していなかったので、
父の活躍の舞台の殆どが、いわゆる「営業」、ドサ回り。

一時期売れたこともあったらしいが、次第に下火になり、仕事がなくなっていく。

そんな時に、母が私を妊娠。
それまでにも妊娠したことがあったが(男の子だった、と聞いた)、父が許さず堕胎。
二度目の妊娠の際も、父は母に「堕ろせ」と言ったが、母の母、つまり祖母がそれを聞いて、怒って父のもとに乗り込んだ。

その祖母の怒りに気圧されて、父は母との入籍と私の出産を決意した。

父にとって母は三人目の妻。
前妻との間に男子が一人いるので、もう子どもはいらないと思っていたらしい。

が、私は祖母のお蔭で無事にこの世に生を受けられた。
昭和46年9月28日。
父46歳、母35歳。


話は戻って、
自分にこれから子どもができるのに仕事が無い状態の父は、
芸能人を引退して、バックヤードに下がる。
マネージャー職として、韓国から歌手を日本に誘致し日本で売り出す仕事をしていた。
確か、名刺の肩書は「部長」だった。

しかし、裏方と言ってもそこは芸能界。
立場が変わっただけで、その世界は父にとっては割と生きやすかったに違いない。

それから10年程経ち、母の提案でスナックを調布の一角に開店することになり、自分も店を手伝うというので、芸能プロダクションを退職。

それが、運のツキだったか。
まさか、その店があっという間に経営不振になって、働きに出ることになろうとは。
自分が友人に頭を下げて、慣れない仕事でストレスを抱える日々になろうとは。

父としては、思ってもみなかったことなんじゃないだろうか。

そうして父は、毎晩「仕事の付き合い」で自分の酒量を超えた飲酒をし、家に帰るとすぐにトイレに駆け込んで、吐いた。

一人で留守番をしていた私が、父の生前半年ほど、毎晩見た光景だった。


何が起きているのか?
あまりに異常な光景に、ひたすら、怖いと思っていた。


「好、背中に膏薬(シップ)を貼ってくれる?」


父はひとしきり吐いた後、「背中が痛い」と言って、
私は湿布薬を父の背中一杯に貼った。


母は殆んど店にいたが、さすがに父の様子がおかしいことに気づき、何度も医者に連れいていこうとした。


医者嫌いの父をようやく医者に見せられたのは、
「余命あと40日」という末期だった。


 

b_manner at 01:25│Comments(0)10代前半 

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