2016年05月13日

父の闘病生活

父の闘病生活は、短く、濃かった。


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その時私は小学校6年生だった。
もうすぐ夏休みという、7月の頭の土曜日。
午前中で授業が終わり、アパートに帰ってきた正午すぎ。
家の電話が、鳴った。


「ああ、好?あのね、落ち着いて聞いて。
今、お父さんをやっとの思いで病院に連れてきたんだけど、
癌だって。もう手遅れだって。」


母の声が、震えている。明らかに動揺している。


私も電話を持つ手が、受話器ごと震えた。
声が、出なかった。

その日、その後どうしたか、どうしても思い出せない。


恐らく、父の病室を訪ねたのは翌日だった。
思ったより元気そうな父。
笑顔で、嬉しそうに私を迎える。


昭和58年当時は、癌の本人への宣告がされない時代だった。
私達は「お父さん、ちょっと肝臓が悪いらしいよ」と適当に誤魔化した。
しかし、父は恐らく気づいていた。
頭のいい人だったし、何より、日に日に増す痛みで、それに気づかずにはおれなかったのだろう。

本人は、最期まで気づかないふりをしていた。
私達が一生懸命言葉を濁すのを見て、それを思いやったのだと思う。


夏休みに入った。
炎天下の中、毎日病院に通った。
病院は、家から電車で30分くらいのところにあった。


「本当に、40日?嘘でしょ?」


毎日毎日、入院の日数を数えながら、どうかそれが医者の間違いでありますようにと祈った。


夏の高校野球が、病院のテレビで毎日流れていた。
未だに夏の甲子園は、あの時の事を思い出させる。

暑さも手伝ってか、父はどんどん食欲が無くなっていった。
母は、伯父から紹介された、癌に効くという高い煎じ薬を毎日仕込み、病室のベッド脇の棚に隠して、父に飲ませた。
どんな味かと一口飲んだら、この世のものとは思えないような不味さだった。
プラスチックを溶かしたような味。
こんなもの、よく飲めるな、と思った。
しかし父は我慢して、毎回それを飲み干した。
自分を心配する母の言うことを聞いてやろう、と思ったのだろう。

父なりの、愛。


病院食は殆ど残す。
冷たいものだったら喉を通るかと、父の好きな冷奴を持っていってみるが、やっと一口食べるのが精いっぱいだった。


高校野球の、準々決勝。
確か、8月9日。
父の誕生日なのに、お祝いどころではない。
腹水が溜まって、風船のように張ったお腹。
肌は渦黒く、黄疸がでている。

それまで泣き言を言わなかった父が、「痛い、痛い」と連呼するようになった。


「お父さん、大丈夫?モルヒネ、打ってもらう?」
「うん」


私は看護婦さんのところに行って、手配してもらう。


モルヒネ。
いくら子どもでも、それが異常な事態であることはわかる。
しかしもう、手の施しようが無かったのだ。当時の医療の限界。
今なら日本全国の名医を探すとか、いろいろな情報を探せるが、当時の私がそんな事できるはずもなく。

残念ながら、それが父の天命だったのだ。


そしてモルヒネを打つ。
やっと、息が付けたかと思いきや、1時間もするとまた痛みがひどくなる。
また、看護婦さんを呼ぶ。

どんどん、看護婦さんを呼ぶ間隔が短くなっていく。
あっという間に父の姿が変わっていく。



誰か、助けて。
お父さんを助けて。
神様、お願いです。
何でもしますから。
お願いです。


どんなに泣いて願っても、その祈りは報われることなく、
その3日後が父の最期の日となる。


「もう、ダメだ」
父が自分でそう悟った時、何か言おうとした。

声は、出なかった。
声を出す力は、もう残っていなかった。

最後の力を振り絞って、ペンを持つジェスチャーをして、私にペンと紙を取らせた。

何かを、書こうとした。
震える手でペンを持ち、何とか紙に押し付けたが、2-3㎝ほど線を引いたところでペンを取り落とし、そのまま絶命した。

あの、最期の残念そうな顔。
悔しそうな顔が、思い出される。


あの時、お父さんは、何を言いたかったの?



昭和58年8月12日。
辻弘、肝臓癌で他界。
享年58歳。








b_manner at 01:24│Comments(0)10代前半 

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